第29話:K部長の栄転
2000年代中頃のこと、日本研究所でずっとお世話になっていたK部長が本社の常務として栄転し帰国して行った。
K部長は本ブログのエピソードに何度か登場しているが、そもそも私が1997年の日本研究所への入社当時、最終面接の為の訪韓の引率で成田空港で初めて会って以来の仲であった。当時はK次長でその後の私の研究所生活を陰でフォローし続けてくれた支援部署のマネージャーであった。
彼はかれこれ47歳近くになり、またS社では48歳で常務に昇進出来ない部長級は退職を余儀なくされるという話を聞いたことがあった。従って彼の上司や研究所長が必死に彼の常務栄転先を調整してくれたそうだ。彼としては日本研究所内に残りたかった節もあるのだが結局日本にポストはなく、彼が日本駐在を始める前に在籍していた本社TV事業部の品質保証担当常務として栄転し韓国に帰国することになった。
彼は十数年に渡り日本研究所駐在員として勤め上げ、また日本文化にもよく馴染み、私が見たところほとんどいわゆる日本人といっても良い人物であった。本人も日本に永住しても良いくらいに考えて居たようだが、反面彼の子弟の教育問題で悩んでいたようだ。
彼の子弟は韓国人学校に通っていたが、日本生活が長い為に通常の友人との会話は殆ど日本語であり、家庭内での父母との韓国語会話では言葉の意味を聞き直す場面もあったようである。またK部長本人が一番よく知っていたろうが「日本人」として感じる韓国人または韓国社会への違和感に果たして彼の子弟が本当になじめるかの心配もあったのだろう。
ある時彼に御子弟は物を考える時に「韓国語」で考えているのか「日本語」で考えているのかと尋ねた事があるが、彼は悲しそうな顔で多分「日本語」で考えているのでしょうと答えるのだった。彼自身の事はまだしも、今後子弟がどちらの国で生活して行くのが良いのか相当悩んでいたようである。結局彼は、韓国の人事異動の時期である年末に韓国に帰っていった。子弟は帰国子女枠として韓国の大学入学を目指すのだという。
さて、翌年の4月頃、本社で昇進したK常務にちょっとした技術アドバイスを依頼され、表敬訪問がてらに韓国本社のTV事業部を訪ねた。旧知の仲だったのでやあやあと挨拶を交わしたのだが我々は彼の表情が日本勤務の時に比べ激変しているのに驚いたのであった。笑顔を作っているのであるが、日本勤務時代の柔らかな日本人と見まがう表情が一変していわゆる普通の韓国人の表情になっているではないか。さらに開口一番「もう昇進なんかどうでも良いから日本に帰って日本で仕事がしたいです・・・」とまで言い出す始末であった。
彼は現在はS電子の副会長まで上り詰め最近退任された当時のC社長の下で仕事をしていたが、社長は元々仕事の鬼の様な人物で、自分の気の向くままいつでも部下たちを呼びつける様な人物だったらしい。従って帰国から3ヶ月余り殆ど24時間気が抜ける時間が無く、新任常務のプレッシャーもあって憔悴しきってしまったらしい。また仕事以外の学閥や出身地方閥の人閥との酒のつきあい等にもヘキヘキとしていたようである。
つまり良く言われる、余りにも濃い韓国村社会の人間関係に疲れ切ったと言う訳のようだ。要するに長い日本駐在員生活で培った日本人としての社会感覚からすると、久しぶりに帰って行った韓国社会は余りにも神経をすり減らし暮らしにくかったのだろう。K部長のような海外駐在員でなくてもS電子の有能な技術者が韓国を捨てて海外移民して行くという話しも良く聞く。
話しは変わるが、現在日本に居住するいわゆる在日韓国・朝鮮人の人たちにも同様の事が言える訳で、また彼ら自身が祖国での社会生活の閉塞感を一番よく理解し、また日本での生活のし易さを理解してている訳であるから、言葉では反日を叫んでいても未来永劫彼らは祖国には帰りたがらないだろうと筆者は思うのである。それならば日本での外国人参政権等の権利を声高に求めるより、いち早く日本に帰化して韓国・朝鮮系日本人として生きて行く事を望むのである。なぜならどれほど民族のアイデンティティーを主張しようとも、彼らの祖国は彼らが決して生活したくない祖国であるのだから。
栄転したK常務は最終的に韓国での本社生活になじめずに3年程勤務した後退職し、現在は某日本企業の韓国事業所に転職し笑顔を取り戻したのであった。
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K部長は本ブログのエピソードに何度か登場しているが、そもそも私が1997年の日本研究所への入社当時、最終面接の為の訪韓の引率で成田空港で初めて会って以来の仲であった。当時はK次長でその後の私の研究所生活を陰でフォローし続けてくれた支援部署のマネージャーであった。
彼はかれこれ47歳近くになり、またS社では48歳で常務に昇進出来ない部長級は退職を余儀なくされるという話を聞いたことがあった。従って彼の上司や研究所長が必死に彼の常務栄転先を調整してくれたそうだ。彼としては日本研究所内に残りたかった節もあるのだが結局日本にポストはなく、彼が日本駐在を始める前に在籍していた本社TV事業部の品質保証担当常務として栄転し韓国に帰国することになった。
彼は十数年に渡り日本研究所駐在員として勤め上げ、また日本文化にもよく馴染み、私が見たところほとんどいわゆる日本人といっても良い人物であった。本人も日本に永住しても良いくらいに考えて居たようだが、反面彼の子弟の教育問題で悩んでいたようだ。
彼の子弟は韓国人学校に通っていたが、日本生活が長い為に通常の友人との会話は殆ど日本語であり、家庭内での父母との韓国語会話では言葉の意味を聞き直す場面もあったようである。またK部長本人が一番よく知っていたろうが「日本人」として感じる韓国人または韓国社会への違和感に果たして彼の子弟が本当になじめるかの心配もあったのだろう。
ある時彼に御子弟は物を考える時に「韓国語」で考えているのか「日本語」で考えているのかと尋ねた事があるが、彼は悲しそうな顔で多分「日本語」で考えているのでしょうと答えるのだった。彼自身の事はまだしも、今後子弟がどちらの国で生活して行くのが良いのか相当悩んでいたようである。結局彼は、韓国の人事異動の時期である年末に韓国に帰っていった。子弟は帰国子女枠として韓国の大学入学を目指すのだという。
さて、翌年の4月頃、本社で昇進したK常務にちょっとした技術アドバイスを依頼され、表敬訪問がてらに韓国本社のTV事業部を訪ねた。旧知の仲だったのでやあやあと挨拶を交わしたのだが我々は彼の表情が日本勤務の時に比べ激変しているのに驚いたのであった。笑顔を作っているのであるが、日本勤務時代の柔らかな日本人と見まがう表情が一変していわゆる普通の韓国人の表情になっているではないか。さらに開口一番「もう昇進なんかどうでも良いから日本に帰って日本で仕事がしたいです・・・」とまで言い出す始末であった。
彼は現在はS電子の副会長まで上り詰め最近退任された当時のC社長の下で仕事をしていたが、社長は元々仕事の鬼の様な人物で、自分の気の向くままいつでも部下たちを呼びつける様な人物だったらしい。従って帰国から3ヶ月余り殆ど24時間気が抜ける時間が無く、新任常務のプレッシャーもあって憔悴しきってしまったらしい。また仕事以外の学閥や出身地方閥の人閥との酒のつきあい等にもヘキヘキとしていたようである。
つまり良く言われる、余りにも濃い韓国村社会の人間関係に疲れ切ったと言う訳のようだ。要するに長い日本駐在員生活で培った日本人としての社会感覚からすると、久しぶりに帰って行った韓国社会は余りにも神経をすり減らし暮らしにくかったのだろう。K部長のような海外駐在員でなくてもS電子の有能な技術者が韓国を捨てて海外移民して行くという話しも良く聞く。
話しは変わるが、現在日本に居住するいわゆる在日韓国・朝鮮人の人たちにも同様の事が言える訳で、また彼ら自身が祖国での社会生活の閉塞感を一番よく理解し、また日本での生活のし易さを理解してている訳であるから、言葉では反日を叫んでいても未来永劫彼らは祖国には帰りたがらないだろうと筆者は思うのである。それならば日本での外国人参政権等の権利を声高に求めるより、いち早く日本に帰化して韓国・朝鮮系日本人として生きて行く事を望むのである。なぜならどれほど民族のアイデンティティーを主張しようとも、彼らの祖国は彼らが決して生活したくない祖国であるのだから。
栄転したK常務は最終的に韓国での本社生活になじめずに3年程勤務した後退職し、現在は某日本企業の韓国事業所に転職し笑顔を取り戻したのであった。
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